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第一章 日本におけるアルゼンチンタンゴ・ダンスの創生期

 1987年それは今から15年前のことである。アルゼンチンのブエノスアイレスにて

「この素晴らしいアルゼンチンタンゴ・ダンスを日本中に必ず普及しよう。」と決意し、寸暇を惜しんで練習に励んでいた。

当時の日本ではアルゼンチンタンゴを踊る人は皆無でありタンゴと言えばソシアルダンスのタンゴ一辺倒であった。

当然、私もソシアルダンスのプロとして30年間このスタイルに随分と親しんだものであった。

そんな中、私に大きな刺激を与えた物があった。

それはブロードウェイでロングランを続けていたショー「タンゴアルゼンチーノ」の日本えのプロモーションビデオであった。

それを見た時、私が30年間追い求めていた、男女で踊る究極の姿をその中に見出した。

引退の時期を考え、踊る意欲が薄れていた私に大きな衝撃を与えた出来事であった。


 この日を境に踊りに対する情熱が再燃し、一ヶ月後にはアルゼンチンに居た。
最初は、自分自身の踊りに対する意欲を満たす為に留学した筈なのに、学んでいる内に、

長い歴史の上に積み重ねられたタンゴの感性、技術の深さ、そしてアルゼンチンを代表する文化に触れるに従って、

これを一人締めにするのは舞踊家として罪の意識さえ感じるようになり、帰国したら一人でも多くの日本人にこの素晴らしさ知って貰い、

日本の隅々までこのタンゴダンスが踊られるまで普及しようという大きな夢を抱くようになった。


 しかし、ここに至るまで決して迷いが無かったかといえば嘘になる。

当時は麻布十番にスタジオを持っており、ジャズダンスとソシアルダンスを教えていた。

そして、踊り手としては晩年に差し掛かる50歳を過ぎており、この年齢で30年のキャリアを捨て新分野に飛び込むには、

かなりの勇気が必要であった。その勇気を奮い立たせてくれたのは、やはり踊りに対する情熱だった。

燃えるものが無くなり、惰性で踊っている自分が許せなかった。

私にとってタンゴとの出会いは、踊る喜び、継続するエネルギー、そして若さを与えてくれた。

若し、このアルゼンチンタンゴ・ダンスに巡り会わなかったら、踊りに対する情熱は失せ、夢の無い人生を送っていたであろう。

舞踊人生の晩年になっての巡り会いに、人の力の及ばない運命的なもの感じている。

故に日本に唯一人のアルゼンチンタンゴ・ダンサーとしての道を歩むことになるのである。

クロニカテレビでの本番風景。
アルゼンチンの一流新聞
「ラ ナシオン」に東洋の神秘と紹介される。
タンゲリア「カサブランカ」に出演。

 アルゼンチンでの日々は、起きてから寝るまでタンゴ漬けと言っても過言ではないものであった。

一日に、少なくとも3人位の先生からレッスンを受け、残りの時間は貸しスタジオで練習、深夜はミロンガで踊り、

明け方に寝るというものだった。

また、日本人がタンゴを踊ることが話題になり、テレビ、新聞等の取材にも追い回されていたが、

全て順調に運ぶ事が出来た陰には在留邦人の方々の協力と、彼らが移民して今日までに築いた

「日本人は優秀で信用が出来る」という事がアルゼンチン人の中に浸透していた為、その恩恵を蒙る事が出来た。
 しかし、最近になって日本の若い女性が多く行くようになり、

彼女らの節度の無い行動に批判が集中している現実は嘆かわしいかぎりである。

30名位いる中、全ての女性がそうだとは思えないが、前人が築いた信用と日本人の誇りを

傷つけない節度ある行動を求めてやまない。

普及活動の始動
 
日本にアルゼンチンタンゴ・ダンスを普及したい、という熱い想いを胸に帰国、

アルゼンチン共和国総領事を名誉会長に迎え、アルゼンチンタンゴ・ダンス協会を設立し、

身軽に行動出来るようにスタジオも閉鎖した。

準備万端整え、第一段階として、読売文化センターを訪問し講座の開設を依頼したが、

開設までには幾多の乗り越えなければならない壁があった。

それもそのはず、日本には未だアルゼンチンタンゴ・ダンスを踊る人は一人もいない現状下では、

受講生は集まるだろうかという不安は当然の事だった。

それから、幾度となくこのダンスの良さを理解して貰うべく説得に努め、「では、一度だけイベントとしてやりましょう」と

いうまでに7ヶ月を要した。

そして、このイベントには、文化センターの社長も見え、出席者からは「若し講座を開設したら受講する意志がありますか?」と

いうアンケートを取った。絶対に失敗は許されないとの重圧に凄く緊張したものだ。

結果は非常に良く、同じイベントを再び開催する事となった。このような過程を経て、

漸く1ヶ月、週1回の講座を開設しようということになり、新宿の読売カルチャーサロンに日本最初の講座が誕生した。

しかし、未だ安心出来る状態ではなかった。

35人程いた受講生には1ヶ月で辞めて貰い、新しい受講生を募集してもう1ヶ月やり、様子を見ましょうとの事であった。

「講座を継続したら次も受講しますか?」とのアンケートを集めたのは当然の事で、

毎回、タンゴの楽しさを理解してもらえるよう真剣に講習をしたが、その反面、試験に合格を祈願する受験生の心境だった。

結果は定期講座開設と進んで行ったが、振り返って見ると、よくあの時期に講座開設を決意して戴いたものだと、

当時の担当者の方の理解と愛情に深く感謝している次第である。


 一方、協会としても虎ノ門で定期講習会と個人レッスンを始め、各地でショーに出演し普及活動に専念していたが、

先駆者としての悲哀を幾度となく舐めさせられた。

当時のアルゼンチンタンゴ愛好家は全て音楽が好きな方達で、ショーで踊った時など、

踊りが目障りだとの理由で目を閉じ音楽に耳を澄ませるという仕打ちにあった事もあった。

また、日本人の踊りなどタンゴじゃないと酷評もされた。

しかし、これらの出来事は闘争心を駆り立てる糧になり、いまでは酷評に感謝している。

そして、アルゼンチンの模写に留まらず、日本人の感性で世界に通じる踊りの完成に全ての時間を注いで行った。

優雅、繊細、精密が私の踊りを作る上のポリシーであった。


 また、タンゴダンス人口が少ないことも、色々な障害になった。

当時タンゴダンス専用の靴が日本には無く、アルゼンチンから輸入していたが、あまりの不便さに、

日本のダンス用品専門店に製作と店頭販売を依頼した所、全然相手にされなかった。

この頃の受講生の数は約80名位であり、現状を考えれば採算が取れない事は理解出来るが、

将来必ずタンゴダンス人口が増え需要も増加する旨、説得に努めたが、どの専門店にも冷たくあしらわれてしまった。

やむなく、私の方で百足分を引き取ることを条件で試作を重ね、漸く日本製のタンゴシューズが出来上がった。
そして、現在ではアルゼンチンタンゴ専用の靴が専門店に並ぶようになった。


 私が上京した47年前は、ソシアルダンス人口も少なく、ダンスシューズを扱う店は家内工業の境を出ず、

先生を通じて生徒さんに斡旋して貰うべく、業者の人達は凄く低姿勢であった事を記憶している。

教師が一生懸命にダンス人口を増やす努力をし、人口が増えるにつれ当然ダンス用品の需要が増加し、

数多くの専門店が出来、事業を拡大して行った。

ダンスを教えてビルを建てる事は出来ないが、業者はそれを実現している。所詮、商売人にはこの事に関しては勝ち目は無いのである。


 また、アルゼンチンタンゴ・ダンスを日本に普及するにあたり、凄く悩んだ事があった。

アルゼンチンではサロンで踊る時、男女が頬を付けて踊るスタイルが主流を占めている。

しかし、このスタイルをそのままの形で日本で教える事に、凄く抵抗を感じた。

生活習慣が両国間ではかなりの部分で違っており、挨拶の時、日本では男女が抱き合う事はしないし、

握手することも稀である。私自身、アルゼンチンのサロンで踊った時、この事はかなり苦痛であった。

踊れば当然、汗をかく、そして色々な人と踊り、その結果、色々な人の汗と化粧品がブレンドされ、べったりと私の頬に付着する。

そして、今度は私の汗が加ってブレンドされ、他の女性に貼り付けていく事になるのだ。

「助けて〜」と叫びたくなる。恋人同志で、他の人と踊らないのであれば、これは大いに結構なことである。
 このような観点から頬を付けず、真っ直ぐに身体を保ち、相手の頬の温もりを感じる程度の距離で踊るスタイルを普及すべく決心した。

しかし、教えるということは実に難しく、ショーで来日したアルゼンチン人の一部の人が頬を付けて踊っているのを見て、

直ぐにそれを真似してしまう人もいた。

当時はアルゼンチンタンゴを専門に踊れる場所が無く、そういう人に限って、ソシアルダンスを踊る場所に行き、

音楽に関係なく、顔を突き出し、腰を引き、頬を付けて、これこそアルゼンチンタンゴだと言わんばかりに得意になって踊っていた。

それを見た人達は一様に「アルゼンチンタンゴはなんて下品な踊りでしょう」といって笑っていたものだ。

タンゴを踊る人が増えることは誠に結構なことだが、このような弊害も数多く現れた。

それらを修正すべく、機会あるごとに各地でデモンストレーションをやり、理解を得るのに必死で取り組んだ。

しかし、また別の弊害も出て来た。

デモを観た方達は凄く感動して呉れたが、「あれは観るもので素人が踊るものではない」というふうに言われる方が多く現れた。

それからのデモでは必ず、誰にでも踊れるサロンスタイルのゆったりした踊りを一曲入れるようにし、

出来る限りデモだけでなく、ミニレッスンを行い会場にいる人達に実際に簡単なステップで踊ってもらい、

タンゴを肌で感じ理解し親しんで貰える努力をしてきた。つづく 

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