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第三章 小林太平と江口祐子アルゼンチンタンゴ舞踊団
「タンゴリベルタ」アルゼンチンに上陸

「タンゴリベルタ」公演。パブロピカソ劇場の客席。

カルロス&アリシア(ダンサー)ロス・バレンスエラ(ダンサー) 
ホセ・リベルテーラ(バンドマスター)ドナート・ラシャッティ(バンドマスター)

前田先生(医師)の顔が見える。

 アルゼンチンに初めて留学した日から、既に5年の歳月が過ぎていた。
何故か、足の震えが止まらない。初めての経験である。
今まさに緞帳が上がろうとしているのに、こんな状態で果たして踊る事が出来るのだろうか。
不安で胸まで苦しくなって来た。緞帳の向こうの観客はアルゼンチン人なのだ。
入場料を取っている以上、甘えは許されない公演なのだ。史上初の外国人舞踊団のタンゴが、アルゼンチン人の目には、どう写るのだろうか。

また、物理的条件も更に不安を煽った。それは、舞台の傾斜である。此方の殆どの劇場は舞台面が客席の方に傾斜しているのである。
観客が見やすいようにとの配慮からだろう。 しかし、日本の平らな舞台に慣れている我々には悲劇である。
  本番前の緊張のあまり、怖いとさえ思える観客の方に吸い込まれそうである。
おまけに、舞台と客席の間には真っ暗で深いオーケストラピットがポッカリと口を開けていた。
間もなく緞帳が上がり震えも止まり、自分を取り戻し「タンゴリベルタ」アルゼンチン公演

(舞踊団員8名、音楽監督、志賀清、編曲、加藤真由美、演奏、ベリンジェリ他4名)は大成功で舞台を終える事となるが、

この章では触れずに先に進もう。

「タンゴリベルタ 94」歓迎会
アルゼンチンに到着した日に、タンゲリアで駐亜日本大使ご夫妻ご出席のもと歓迎会が行われた。
出席者:駐亜日本大使ご夫妻、駐亜日本領事ご夫妻、ホセ・リベルテーラ(バンドマスター)、ホセ・コランジェロ(バンドマスター)、マジョラール&エルサ・マリア(ダンサー)、エドワルド&グロリア、ミゲル&ミレーナ、タランティーノ(FMタンゴ・プロデュサー)、藤井共同新聞記者、ラプラタ報知高木社長、日本人会会長他

ブエノスアイレスの街頭に立てられた「タンゴリベルタ」公演の大看板

日本の読売新聞に、

「アルゼンチンで恩返し公演」の見出しで報じられた。

 

この年の(92年)「タンゴリベルタ」アルゼンチン公演は、3回を予定していた。
一回目は日本庭園にあるホールで、日本病院建設の為のチャリティー公演で、
二回目はブエノスアイレス市立アルベアール劇場で小児慈善病院「カーサクーナ」の為のチャリティー公演、
三回目はバイアブランカ市立劇場での親善公演であった。この三回公演の立案には、それぞれに、それなりの理由があった。

 まず最初の公演、日本病院建設のお手伝いであった。
そこに至る大きな理由とは、私が二回目の留学(87年)をした際に、病気で倒れ緊急入院した時、
日本人医師(前田先生)に親身にお世話戴いたその恩返しが目的であった。
当時のブエノスアイレスには日本会館というのがあり、その中に診療所が置かれ、日本人医師が3人診療にあたっていたが、
入院施設が無く、入院を必要とする患者は他の病院にいかざるをえなかった。
私もその内の一人で、意識が朦朧とした中、運びこまれた外国の病室での不安は計りしれないものであった。
そんな中、毎日往診に来てくれたのが前田先生だった。日本語で病状を訴えられる気安さ、そして、周囲が死をも覚悟するほどの病状の中、
先生の人脈で大学病院の各分野の専門医に特別に往診を依頼し、病気の原因究明に奔走して頂いた事、
そして、前田先生の限りなく優しい人間性は何よりも私の救いであった。
腸炎から来る脱水症状と診断され、一週間後には退院出来たが、この経験から、前田先生の願望である入院設備のある
日本病院建設の夢を知り、私も将来必ず前田先生の夢の実現のお手伝いをする事を心に決めたのであった。
それが、現実のものとなった。ついに今回の日本病院建設チャリティー公演の運びとなり、恩返しの第一歩を踏み出した。
この2年後にも同じ目的で公演を行い、各方面に協力を求め、前田先生の方では日本政府にも働き掛けたようであったが、
現実は厳しく、夢の実現は未だ見通しが立っていないのが現状である。タンゴ愛好家の理解と協力を切望してやまない。

パブロピカソ劇場での「タンゴリベルタ」公演に駐亜日本大使館文化部より花束が贈られた。 日本会館より感謝の記念プレートを授与された。

 二回目の小児慈善病院「カーサクーナ」のチャリティー公演も、アルゼンチンに少しでも恩返しをしたいという気持ちから計画したものであった。
タンゴ、それはアルゼンチンが育んで来た文化であり、その文化に巡り会えたことに依って、私の舞踊人生に大きな影響が与えられ、

活気ある日々を送ることが出来た現状を感謝するものであった。
しかし、この公演が幕を上げるまでに、日本では考えられないハプニングが、アルゼンチンに着いて三日目に起こった。
それは、日本を出発する前に契約を済ませていた、市立アルベアール劇場が使用出来ないという問題であった。

理由は、政権が変わり市の役員の移動で、契約書が見つからないという信じられないものであった。

公演日を一週間後に控え、全ての宣伝を済ませているこの時期に何事だと怒り心頭に達していた。

今回の公演のプロデュースを全て依頼していた、鈴木トラベルエージェンシーの社長、鈴木積氏も根気よく交渉に当ったが、解決には至らなかった。

結局、急いで替わりの劇場を探さなければならない破目に陥ってしまった。

残りの時間は6日しかなかった。次のバイアブランカの公演を控え、妥協出来ない厳しい日程の中、劇場探しが始まった。

この時ほど日本とアルゼンチンの違いを実感したことはない。

しかし、これまた絶対に日本では真似の出来ないことが次々と起こって行った。

5,6箇所の劇場を見て回り、漸く希望にかなうパブロピカソ劇場が見つかり、急いで契約という所まで来ながら、

今日は担当者が不在だから明日にして呉れとの事、しかたなく翌日の早朝の契約となった。

これからが大変である。ポスター、チラシ、入場券の作製、そして、なによりも劇場の変更を如何に早く知らせるかで、

雑務に追われる身となり、練習は殆ど出来ない始末であった。

それが驚くことに、翌日にはポスター、チラシ等の印刷物は全て出来上り、街頭には公演の大看板が出るという早業であった。

そして、ラジオ、テレビからも公演の案内が流れ始めた。

あまりの事に、アルゼンチンを理解せず、日本流に考え深刻がり、がっくり疲れてしまった自分を随分反省したものであった。

しかし、理解したようであったが、これに似たような出来事に、後にも遭遇し神経が擦り減ったことは度々あった。

バイアブランカ公演

バイアブランカ市立劇場、親善公演の満席の客席。 バイアブランカ市長表敬訪問の際、市章を授与される。
 

三回目のバイアブランカ市(ブエノスアイレスより南に600キロ)での親善公演は、この2年後にも再び開催する事となるが、

その出来事は、私の人生に特筆すべき感動的な想い出となった。

アルゼンチンの中でブエノスアイレスに次いでタンゴに深い関わりを持つ所が、このバイアブランカであろう。

何故なら、故カルロス・ディ・サルリの誕生の地だからである。氏は作曲家であり、また、ピアニストとしてオーケストラを率いて、

後世に残る独自のタンゴ音楽のスタイルを確立した偉大な音楽家である。

中でも出身地をテーマに作曲した「バイアブランカ」という曲は、特に有名である。全てのダンサーが基礎練習には、

氏の演奏する音楽を使用すると言っても過言ではないであろう。

リズムの間が良く、哀愁を帯びた旋律は、タンゴを身体で感じて踊るには最適であり、

当時の私も基礎練習には必ずこの音楽で汗を流していた。

そして、このディ・サルリ・スタイルの音楽が持つ感性は、私のタンゴダンスの基盤形成に大きな影響を及ぼした。

その事が鈴木氏を通じて、ペイニャ・カルロス・ディ・サルリ(ディ・サルリを偲んでバイヤブランカに結成された団体)に伝わり、

国は違っても、同じディ・サルリを愛する同志、是非バイアブランカで公演をして欲しいとの要望があり、実現する事となった。

この実現には、ペーニャ・カルロス・ディ・サルリからバイアブランカ市に招聘の為の予算の計上を働きかけ、

市立劇場と晩餐会場の確保等、受入態勢を一年掛かりで整え、私達を迎えてくれたのであった。


 早朝のバイアブランカ空港に降り立った私達は、人の多さと異様な雰囲気に戸惑いを覚えた。

最初は、誰か有名人が到着するのを迎えに来ているのかなと思っていたが、どうもそうではないらしい。

カメラのレンズは一様に此方に向けられているし、多くの人達の視線も皆、私達の方に集まっていた。

その内に、皆の手が此方に向けて振られ始めた。

その時やっと私達を迎えに多くの人達が、早朝にも拘わらず空港に出迎えてくれていることが判った。

その瞬間、鳥肌が立つ感動に襲われた。また、この模様が今日のテレビニュースで流されると聞かされ、

公演の意味の重大さに身の引き締まる思いであった。

空港での記者会見を終え、迎えのバスに乗りホテルに着いた私達は、1時間の休憩の後、市長表敬訪問の為に市庁舎に向かった。

今回の公演に示された市長の好意と、市が予算を計上し公演が実現にこぎつける運びとなった事へのお礼の為であった。

市庁舎入り口の階段を上がり、吹き抜けになったエントランスホールに入り、最初に目に飛び込んで来たものは、

壁に張られた今夜の公演「タンゴリベルタ」のポスターであった。

如何に万端な準備が、今日まで行われて来たかを加実に物語っていた。

市長より市章を授与され、今夜の再会を約束して市長室を辞し、献花の為、カルロス・ディ・サルリの銅像のある所へと移動した。

故カルロス・ディ・サルリの銅像に献花。
左より小林太平、ペーニャ・カルロス・ディ・サルリ会長、カルロス・ディ・サルリのお嬢さん、江口祐子
ペーニャ・カルロス・ディ・サルリ主催の昼食会。
小林、江口、ペーニャ・カルロス・ディ・サルリ会長、カルロス・ディ・サルリ未亡人、志賀氏を囲んで。
 

  銅像の前には既にブエノスアイレスから到着していた、カルロス・ディ・サルリの未亡人と、

お嬢さんのクリスティーナ(ブエノスアイレス大学教授)が待っていてくれた。

そして、銅像の台座には私達の踊りの写真を陶器に焼き付けたプレートが張られていた。

間もなく、多くのペーニャ・カルロス・ディ・サルリの会員の見守る中、プレートの除幕式と献花が行われた。

それは、カルロス・ディ・サルリを愛する人なら、たとえ外国人であろうと全てを受入れる、暖かい雰囲気に包まれたものであった。

そして一人の日本人として、偉大な音楽家に献花出来た事に、何故か非常な栄誉を感じた瞬間であった。

今度は昼食の為、市の集会所に連れて行かれた。

驚いた事に、そこには100人は着席できるであろう長テーブルに、食事と飲み物が所狭しと並べられていた。

そしてテーブルの周りとキッチンには、50人位のご婦人が忙しく、食事の仕度に励んでいた。後で判ったことだが、

このご婦人達は全てペーニャ・カルロス・ディ・サルリの会員の方達であった。

私達の為に、全て手作りの昼食に感激ひとしおであった。キッチンから流れ出る、肉とソーセージを炭火で焼く、ほのかな煙と匂いに包まれ、大昼食会が始まった。

夜の本番を控え、目の前の美味しそうなワインを飲むのをグッと堪え、ひたすら食べる事に専念した。

ほどよく満腹になった頃、急にバンドネオンの演奏が始まった。ラ・クンパルシータである。

皆から私に踊りの催促が飛んできた。お腹は満腹、急なことで心の準備も無く、緊張感が身体に漲ったが、ここで踊らなければ礼に失する。

しかし、此処に居る人達は私の踊りを初めて見ることになる。いい加減に踊れば今夜の公演の期待感を損ねてしまう。

かといって、余り緊張して踊るとこの場の雰囲気にそぐわない。一瞬だがそんなことが脳裏をよぎり、兎に角、中央に出てアドリブで踊った。

周囲が非常に集中して踊りを見ているのが肌で感じられた。そして踊り終わった途端、賛辞の抱擁で、もみくちゃにされてしまった。

踊りをやって来た幸せを心より実感した瞬間でもあった。それから2時間、全員入り乱れての、お昼の大舞踏会と化していった。


 さあ、これからが大変であった。急いでバイアブランカ市立劇場に行きリハーサルである。

この劇場は市の中心部に位置し、バルコニー付きの客席があり、威風堂々としたものであった。

舞台奥中央には日亜両国の国旗が下げられ、親善公演の雰囲気がいやおうなしに盛り上がって来る中、

約1000席の劇場を満杯にして、緞帳は上がっていった。プログラムは順調に進み、スタンディングオベーションを受け幕は降りて行った。

しかし、これで終わったわけではない。ホテルに戻り汗を流して、私達を歓迎する為に企画された舞踏晩餐会に急いでかけつけた。

会場はクラブ・アルヘンティーノという、市の公式な晩餐に使用される格式ある立派な建物であった。

最初は300人位の予定だったが、公演を見た人達が感動のあまり、急に晩餐会に出席したいと言い出し、

急遽200人位増え、開催時間も準備の為、大幅に遅れ、始まったのは午前1時を回っていた。

それでも出席者は誰も不平を言わず、席に着いて歓談している様に、国民性の違いに、ただただ感心するばかりであった。

こちらは一日の疲れが出て、睡魔との戦いであった。

私達のテーブルは主賓席で中央にあり、此処で居眠りをしたら男一生の恥と思い、まさに、瞼に支え棒で頑張った。

その内に司会者から呼び出されてデモンストレーションである。それが終わると、主催者からの記念品と感謝状の贈呈であった。
 

クラブ・アルヘンティーノにおける、晩餐舞踏会でペーニャ・カルロス・ディ・サルリより記念のプレートを授与される。 授与されたプレート 出席者全員のサイン入りの記念品も贈られた。 バイアブランカ市立劇場でのステージ風景。日亜両国の国旗が掲揚されている。

   詳細は省略するが、この晩餐会での出来事は感動の連続であり、この感動は、私にとって一生忘れることの出来ないものとなった。

午前4時にホテルに戻り、閉っていたカフェテラスを、ホテルの好意で開けてもらい、今日一日の出来事を思い浮かべながら飲んだワインの味は、格別であった。

睡魔を通り越し、興奮した神経に染み渡って行った。未だこの時には、翌日の空港での別れが、感涙に咽ぶものになるとは想像していなかった。


 2年後には必ず戻って来る事を約束したが、人間のもつ純粋な優しさに触れ、とめども無く流れ出る涙を抑えることは出来無かった。

昨日までは、まったく知らなかった人達、共通点はカルロス・ディ・サルリが好きで、タンゴをこよなく愛しているというだけである。

言うまでもなく、翌日もご婦人方の手作りの大昼食会であった。そして100人位の人が、名残を惜しんで空港に送りに来てくれた。

若し、この方達が日本に来た時、損得を捨て、心から歓待出来るだろうか。

例え私一人が出来たとしても、タンゴを愛する日本人の多くが、一丸となって協力し歓待出来るだろうか。

一夜だけならホテルでパーティーも出来るであろう。しかし2日がかりで、手作りの料理でもてなす事など、とうてい考えられないし、

そういう会場も今の日本には見当たらない。

何故か、遠い昔の、私が生れた村のことが思い出されて来た。昔は村中が協力して、一つの行事を遣ったように記憶している。

現在の日本に、はたしてそういう風習は残されているのだろうか。今の日本人の生活慣習をも深く反省させられたバイアブランカの二日間であった。
つづく

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