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第四章 舞踊団の裏話

暗闇を引き裂く風の唸り、雨戸を叩く豪雨の音、台風の接近である。眠れぬままに時計を見ると深夜0時を過ぎていた。

その時である。暴風雨を掻き消すように電話が鳴った。「明日は予定通りやりますか?」プロデューサーからであった。

彼も心配で眠れないのであろう。

1990年9月19日、明日はヤクルトホールで小林太平と江口祐子アルゼンチンタンゴ舞踊団

「タンゴリベルタ」の旗揚げ公演の日であった。

「どのような事態になっても必ず幕を開けるから宜しく。」と言って電話を切った。

この暴風雨では交通機関にかなりの被害がでそうである。万一観客が一人も来なくても、日にちの変更は不可能であった。

不安は募るばかりである。天気予報では明日の昼頃東京に最も接近するとのことであり、益々、風雨は強さを増していった。

予報が外れて早く通り過ぎて呉れと祈る気持ちであった。

眠れぬまま2時間程うとうとしたであろうか、目が覚めてみると、なんと鳥のさえずりが聞こえるではないか。

急いで雨戸を開けると雲一つ無い晴天が目に飛び込んで来た。

思わず「よーし、やった」と叫んでしまった。天気予報がはずれ台風の通過が早くなったから良かったが、

若し、遅い方にはずれたら悲惨であった。新しい物を生み出す苦しい試練を自然は与えたのだろうか。

はやる気持ちを抑えながらも、急いで身支度をして劇場へと向かった。


読売新聞に報じられた
「アルゼンチンタンゴ舞踊団 旗揚げ公演」

11時からリハーサルである。皆の顔が晴れ晴れとしていた。台風一過のすがすがしさが、よほど嬉しかったのだろう。

しかし、これからが大変であった。なにしろ舞台経験者は私とパートナーの江口の二人だけであった。

他は全員本日が初舞台である。しかし、この初舞台は誰でもが必ず一回は経験する物であり、

これから成長するかどうかは本人の努力次第である。

この舞踊団設立の目的はアルゼンチンの文化と日本の伝統文化を融合させ、日本人の感性でタンゴを舞台芸術にまで昇華させる事と、

もう一つにはプロダンサー育成であった。当時の電話帳をめくってもアルゼンチンタンゴ・ダンスのプロは私だけであった。

日本中にタンゴを広めようと、いくら私一人が努力しても、そこには限界があった。

一人のプロが100人のタンゴ愛好家を育てれば、10人で1,000人、100人で10,000人である。大きな可能性に向かってプロの養成は急務であった。

今日迄、約一年間叱責して練習を積み重ね長く感じた期間も、緞帳が上がった瞬間、猛スピードでフィナーレを迎えてしまった。

成功したか、不成功で終わってしまったかは、この時は殆ど気にならなかった。

それよりも旗揚げ公演を、とにもかくにも終わる事が出来た充実感の方が大きかった。

終演後の楽屋には多くの人が訪ねて来ていた。そして殆どの方から賛辞を頂いたが、それは身内のものであって、

今の舞踊団の実力を一番知っているのは私自身であり、今はただ「時間を下さい、皆がプロとして成長するにはどうしても時間が必要です。

どうかそれまで暖かく見守っていて下さい。」と御願いする気持ちで一杯だった。

しかし、入場料を頂いている以上は、何時までも甘えている訳にはいかない。定期公演として続けるには、これから先が大変であった。

経費は収入の3倍も掛かってしまった。お陰で働く意欲は3倍に増えた

毎年、読売新聞に報じられた「タンゴリベルタ」の記事の抜粋

二回目の「タンゴリベルタ」91年の公演にはアルゼンチンから特別ゲストとして、ミゲル・アンヘル・ソットとミレーナ・プレブスを、

翌92年はカルロスとアリシアを招聘し、舞台の充実を計った。

その後、バレエ、モダン、ジャズの分野からも日本人ダンサーを迎え、オリジナル脚本によって人間の持つ様々な喜怒哀楽をタンゴで表現する、

生む苦しみと舞台に立つ喜びを併せ持つ道を生きることとなって行った。

今年は12回目の公演を迎えることとなるが、よく此処まで来られたなというのが実感である。

何故なら、理想と現実は余りにも掛け離れたものであった。良い舞台を作ろうと思えば経費がかかり過ぎ、継続は不可能に近かった。

この問題の解決に行き詰まり挫折寸前迄追い込まれた事もあった。

91年、バブルの最後の年であった。「タンゴリベルタ」に企業のスポンサーが付くという快挙があった。

それも複数の企業である。今後の公演継続に明るい見通しがたった。しかし、翌年にはバブルがはじけ、たった一年で夢のように消えてしまった。

まさにバブルである。当時、メセナという言葉が企業経営者から度々聞こえて来ていた。

即ち広告宣伝のように見返りを追求せず、利益を芸術振興の為に還元するという誠に美しくも崇高な話であった。

しかし、これも以後、泡のように鳴りを潜めて行ってしまった。小泉総理、宜しく御願いしますと言いたいところである。

「タンゴリベルタ」の最大の特徴は、毎年新しいテーマに挑戦して来た事であろう。

再演を避け前回より、より完成度の高い舞台作りは想像を絶する苦しい作業でもあった。

それを続けてこられたのも「去年よりも凄く良かった」という観客の皆さんの批評が創作意欲の糧となっていた。

しかし、若しこれと逆の批評を頂いた時の落ち込みを考えると、背筋の凍りつく思いである。

毎回全力投球で余力が残っていない頭に、新風を送り込んで今日までの公演を成功に導いて呉れたのは、

スタッフと出演者の真剣な取り組みの成果であった。特に、踊りには生きる姿勢がそのまま投影されるものであり、

「文は人なり」というような意味で「踊りは人なり」である。

日頃の踊りに対する真摯でひたむきな生き方こそが、観客と感動を共有するものであろう。

舞踊団設立から十二年の時を重ね、今日では舞踊団出身者が数多くプロとして各方面で活躍している現実に、

設立時の目的の一つであるプロの育成が着実に実を結び、それによって日本のタンゴダンス人口が増加した事に安堵の思いである。

現在も舞踊団には、若い新入団員がプロを目指して研鑚を積んでいるが、彼らも何時かは舞踊団を去り独立して行くであろうし、

また、ひいてはそれが日本のタンゴダンスの普及に大きく貢献する事となろう。

私も過去に師から離れ独立した経験の持ち主である。それに依って、師から与えられた基礎の上に立って成長を計って来たのであって、

この会者定離(えしゃじょうり)に似た行為は世のならいであろう。

しかし、ここで大切な事は、去る時には人間としての道を踏み外さないことである。

嘘をついたり隠し事をせず、正直に話をして了解を求める事は、将来の為にも最も大切な事であろう。

何故か、挨拶もせずに、プロ行為をする人間が余りにも多く、実に嘆かわしい次第である。

技術の習得もさることながら、人格形成に努めて欲しいものである。
嗚呼、この様な事を書いていると、余りの低次元に夢も覚めてしまいます。この次は「夢に向かって」のタイトルに相応しい事に触れたいと思います。
つづく…


夢が実現に近づきつつあり、現在では日本全国にアルゼンチンタンゴ・ダンスを楽しむ方が増え非常に嬉しく思っています。

今日はこの編で終わりますが、後日続きをアップロードして行きます。是非お読み下さい。


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