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アルゼンチンタンゴの歴史
(左写真)1994年にタンゴ発祥の地 ブエノスアイレスのボカ地区カミニートにて市民交歓会の際のデモンストレション風景
アルゼンチンタンゴの歴史

タンゴは、1880年頃、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスと、ウルグアイの首都モンテビデオに挟まれて流れるラプラタ河が、
大西洋にそそぐ河口地帯の両岸で生まれた。
当時、ブエノスアイレスの此の地帯は、新天地を求めて来た移民者がひしめき、雑然とした港町(ボカ地区)であった。
さまざまの人種が共存しているフラストレーションのはけ口として、男同士が酒場で荒々しく踊ったのが、タンゴの始まりである。
次第に、娼婦を相手に踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型が出来ていくが、
当時の新聞は、酔漢達やならず者が踊る下品な踊り、と非難した。
しかし、タンゴはそうした批判にもかかわらず、ブエノスアイレスやモンテビデオの下層階級を中心に、日増しに人気を得て行った。


タンゴ音楽の起源

 一方、タンゴの音楽はダンスの伴奏曲として演奏されていたが、この頃には、まだタンゴとしての形式は確立されていず、
様々なリズムが用いられたようである。
タンゴ音楽の起源には色々な説があり定かではないが、一般的には、アフリカから来た黒人が持ち込んだカンドンベ、
ヨーロッパからはハバネラ、そしてブラジルやキューバからも多くのリズムが入り、現地の音楽と影響しあいミロンガが生まれ、
それがタンゴへと発展して行ったようである。
 1880年には、史上初の「バルトール」という曲名のタンゴ音楽の譜面が印刷され、後にこの年がタンゴ元年と定められた。
初期のタンゴは、バイオリン、ギター、フルートで演奏されており、テンポの早いものであった、
そして、今ではこれが無くてはタンゴにならないと言われるほどの楽器、バンドネオンが移民によって持ち込まれ、
演奏に加わるようになり、タンゴのテンポが遅くなった。
1840年にドイツのハインリッヒ・バンドによって発明されたバンドネオンは、非常に難しい楽器で、
早く演奏することが出来なかったのがその理由のようである。


タンゴの輸出

1910年には、エル・カチャファスというニックネームの男性が、ブエノスアイレスにタンゴダンス教習所を開いた。
彼が、踊りのプロ第一号である。
 1920年には、ヨーロッパやアメリカに渡り、上流階級の社交クラブで教え、ダンス教師として社会的地位を築いていったが、
57歳の時、舞台で心臓マヒで倒れ死亡した。
 
1910年頃は、アルゼンチンでは疎外されていたタンゴダンスであったが、パリでは流行して行った。
最初にパリでタンゴを踊ったのは、アルゼンチンから遊びに来ていた大牧場主、金持ちの芸術家であった。
その当時のダンスは、向かい合わずに腕を組んで踊られており、男女が向かい合って組んで踊るタンゴが、
パリの感覚が受け入れられもてはやされた。このパリでのタンゴ狂いが、発祥の地アルゼンチンに伝えられ、
下層階級のダンスとして白眼視されていたタンゴが、漸く市民権を得るきっかけとなった。

 1912年には、ピアニストでもあったエンリケ・サボリードが、タンゴダンスの教師として成功し、翌年には、
初めて本格的なタンゴグループ(ダンサーとバンド)が、アルゼンチンからパリに渡っ活躍し、人気をあおった。
 1914〜19年の第一次世界大戦で中断されるが、その後も多くの音楽家や踊り手が渡り、タンゴの第一期黄金時代を築いていった。
当時のパリの社交界で踊られていたアルゼンチンタンゴは、最初に酒場で踊られていたスタイルではなく、
サロン風にアレンジされたものであり、フレンチタンゴと呼ばれた。
その頃、社交界に出入りしていた目賀田男爵が、1920年に日本に持ち帰り上流社会の人々に教えたのが、このスタイルである。
これはロンドンで踊り方が変化したイギリスタンゴとも異なっている。
現在でも、このフランススタイルのタンゴを継承しているグループが、日本に存在している。
またこの頃、英国風社交ダンスのタンゴも日本に入るが、当時は文献のみであった。
それが唯一の教材として翻訳され、その文献を参考にして踊られていた。
最初に英国人の踊りを目の当りにしたのは、30数年後の1955年、レン・スクリヴナーとネリー・ダンカンが来日した時であった。
話が前後するが、1925年に、初めて本場アルゼンチンのフランシスコ・カナロ楽団が大編成でパリに渡った。
しかし、フランスの音楽家組合の圧力で、音楽家としての演奏が認められず、バラエティーショーとして登録し、
ガウチョ(アルゼンチンの牧童)のスタイルで演奏し、大人気を博した。以後、このスタイルでの演奏が定着した時代が長く続いた。


タンゴの歌の誕生
1917年にはタンゴの歌も産声をあげた。カルロス・ガルデルによって歌われた「我が悲しみの夜」が、タンゴ歌謡の第一号となった。そして、人生の陰の部分を描写する詩が多くなり、タンゴは哀愁をおびていった。
 ヨーロッパ製のタンゴが生れたのもこの頃であり、1920年フランスの「夢のタンゴ」、イタリアの「バラのタンゴ」、ドイツの「奥様お手をどうぞ」、1923にはドイツの「ラ・ロジータ」、デンマークの「ジェラシー」、と相次いで「でヒット曲が生れた。日本では、アルゼンチンタンゴと区別して、大陸生れのタンゴという意味で、このヨーロッパタンゴを、コンチネンタルタンゴと呼んでいる。

タンゴが映画に進出
 1971年の「暗殺の森」では、女性二人がタンゴを踊った。
1972年には「ラストタンゴ・イン・パリ」という、タンゴをタイトルに加えた映画が登場した。
1977年には、ルドルフ・ヴァレンチノを映画化した「ヴァレンチノ」が制作され、クラシックバレエの名手、ヌレエフが主演し、
ガウチョ・スタイルでタンゴを踊った。
この映画に刺激され、短期間ではあるが、ヴァレンチノ・スタイルのアルゼンチンタンゴが、日本でも踊られた時期があった。
 1985年には「タンゴ・ガルデルの亡命」が封切られ、タンゴを芸術として取り上げ、タンゴ熱を更に盛り上げ、
映画界にも大きな影響を投げかけた。その後、相次いで世界中の映画監督がタンゴを取り上げる様になり、
「ネイキッド・タンゴ」、「タンゴ・レッスン」、「タンゴ」と制作され、タンゴの魅力が抉られ、多くの人々の注目を集めた。


タンゴ黄金時代
1940年代に入ると、ヨーロッパで成功したタンゴ関係者がアルゼンチンに凱旋し、食料輸出の好景気に支えられ、タンゴ黄金時代の到来となった。その後、アルゼンチンにもタンゴの衰退が度々あったが、その都度、外国での人気に刺激されて、根強く復興をとげ、新しいスターが誕生して行った。
 1950年頃には、日本にも20をこえるタンゴバンドが活躍する程の盛況となったが、踊りの方では、フレンチタンゴは流行を見ず英国スタイルのタンゴ一辺倒となっていった。そんな中、日本人が初めてアルゼンチンタンゴ・ダンスを目にしたのは、1961年にフランシスコ・カナロ楽団と一緒に来日した、グロリアとエドワルドが踊った時であった。

二人のタンゴダンスは大喝采を受けたが、この当時はまだ、日本人にはこの種のダンスを踊る人は出現しなかった。
この傾向は、ヨーロッパやアメリカでも同様で、本場アルゼンチンで踊られているスタイルのタンゴが、
他国で一般的に踊られるようになるきっかけを作ったのは、ショー「タンゴ・アルゼンチーノ」の出現であった。

1983年、パリで初演し、大評判となった。

この公演は、1985年にブロードウェイに進出し大成功を収め、タンゴで最初のロングランとなった。
それまでのタンゴの公演は、演奏が主で、ダンスはそれに従属するものであったが、このショーは、

初めてダンスを前面に押し出した作品として制作された。

華麗、官能的、優美、そしてキザで艶麗なタンゴダンスは、観客に大きなインパクトを与えた。

ショーの成功と共に、出演者によるタンゴ教室も盛況で、ニューヨークのナイトクラブ「ローズランド」で開催された講習会には、
2000人を越す人々が参加した。


タンゴ日本に上陸

1987年には、ブロードウェイで記録的な大ヒットを続けていた「タンゴ・アルゼンチーノ」が、漸く日本でも上演された。
その6ヶ月前に小林太平と江口祐子が、プロの舞踊家で最初のタンゴダンス留学をした。

アルゼンチンに渡り、グロリアとエドワルド他、多くのトッププロに師事した。

帰国後、アルゼンチンタンゴ・ダンス協会を設立、各地でショーに出演したり、講習会を開催する等、普及活動を開始した。

この頃から、日本でもアルゼンチンタンゴが踊られ始め、漸く日本のタンゴダンス史に1ページ目が記された。
 
 1989年に、日本のタンゴ舞踊団第一号、「小林太平と江口祐子アルゼンチンタンゴ舞踊団」が結成され、

翌年、東京で旗揚げ公演「タンゴリベルタ」を行った。


 1992年には、外国人舞踊団として歴史上初めてのアルゼンチン公演を行い、大成功を収めた。
以後、94年、96年、98年とつづけて公演を行い、民間大使としてチャリティー公演にも積極的に協力し、福祉にも大きく貢献している。
 

 1990年代に入り、世界中でダンスを中心にしたショーが数多く上演され、ダンス愛好家の圧倒的な増加を見るに至る。

そして社会文化に大きな影響を及ぼし、各国のアルゼンチンタンゴ・ダンス熱が盛り上がっている。

 1988年、読売文化センターで初「のアルゼンチンタンゴ・ダンスの講座が開設され(講師、小林太平・江口祐子)、

日本中にタンゴダンス愛好家の広がりをみるようになった。

 2003年4月、NHK教育テレビ趣味悠々で「今夜もタンゴを踊ろう」が9週間に亘り放送され、小林太平・江口祐子が講師を務めた。

 2003年、旗揚げ公演から14年の歳月を重ねた「タンゴリベルタ2003」がNHKBSハイビジョンで放送された。

 2004年、「タンゴリベルタ2004」が2年連続してNHKBSハイビジョンで放送された。

 
  2005年、6日間に亘って第一回「日本ワールド・タンゴ・フェスティバル」が、東京MXテレビとアルゼンチンタンゴ・ダンス協会共催で開催された。

その一環として「タンゴリベルタ」「日本オープン・タンゴダンス選手権大会」、「ワークショップ」、

「グラン・ファイナル・ミロンガとエキシビション」が行われた。

「タンゴリベルタ2005」ではミゲル・アンヘル・ソット&ソレダ(アルゼンチン)をメインゲストに迎え、

カナダ、イタリア、コロンビア、韓国、台湾、日本等、各国を代表するダンサーが出演した。

 「日本オープン・タンゴダンス選手権大会」では、ステージタンゴ部門ダニエル&エディス(コロンビナ)、

サロンタンゴ部門カルロス&エリアナ(コロンビナ)が優勝した。

 2006年4月、東京MXテレビで日本初のタンゴレギュラー番組「タンゴクラブ」がスタートした。

レギュラー出演は、司会の川崎麻世と坂本知子、リポーターの寺田みき、ホスト役の小林太平と江口祐子。

毎回ゲスト・ダンサーを招き、ショーとトークでタンゴの魅力を紹介。

番組制作は東京MXテレビ、博宣インターナショナル、アルゼンチンタンゴ・ダンス協会が当たる。
 

 2006年11月、第二回「日本ワールド・タンゴ・フェスティバル」が、

東京メトロポリタンテレビジョン、アルゼンチンタンゴ・ダンス協会 の共催で開催される。

そのフェスティバルの一環として、「前夜祭」、U「日本オープン・タンゴダンス選手権大会」、

「タンゴリベルタ2006 」「ワークショップ」が行われた。
「タンゴリベルタ2006」にはミゲル・アンヘル・ソット(アルゼンチン)、ラウラ&フェデリコ(ウルグアイ)、

ジョージ&カイ’ガルシア(USA)他7カ国52組が出演した。
U「日本オープン・タンゴダンス選手権」ではステージタンゴ部門マルコス&メリーナ(アルゼンチン)、

サロンタンゴ部門エンリケ&ユティタ(ドイツ)が優勝。

ジャパン・オープン開会式
ステージタンゴ部門表彰式

ステージタンゴ優勝

マルコス&メリーナ

 
     サロンタンゴ部門表彰式                        タンゴリベルタ2006舞台全景
 
 

アルゼンチンタンゴの歴史の文章の著作権は小林太平が所有。

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